| 広がるホームページの輪 〜青柳明子さんのこと〜(追記) |
| 64回(昭和32年卒) 渡部 功 | ||
| 広がるホームページの輪 〜青柳明子さんのこと〜(追記) 拙稿がホームページに登載されてほどなく、庄司英樹さんから次のようなメールが届きました。なお、このメールは私と青柳さん宛てになっていました。
今更私が説明するまでもないのですが、かつて「百間堀」のあったところに建つ「慶応義塾大学先端生命科学研究所」は、先輩の富塚陽一さん(第57回(昭和25年3月卒))が鶴岡市長を勤めておられた2001年(平成13)に、「世界的なバイオ研究拠点の形成に向けた研究教育の展開」を目的に開設された施設で、最近では、この施設が関わった「人工合成蜘蛛糸繊維」や「鶴岡漢方プロジェクト」が新聞やテレビで大きく取り上げられました。 ところで、鳥居姫は、青柳さんの作品『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(四)忠勝公正室・鳥居姫(一)』を読んでいただければ良く分かるのですが、鳥居姫の父親は鳥居忠政という人で、彼は元和8年(1622)から寛永5(1628)まで22万石の山形城主であった人です。最上家亡きあと、鳥居一党として、庄内に酒井忠勝、新庄には戸沢政盛が、また、上山には松平(能見)重忠とそれぞれ領地が与えられ、奥羽の抑えの重役を担っていました。酒井、戸沢は、いずれも鳥居家とは縁故関係(酒井忠勝、戸沢政盛の正室は、それぞれ鳥居忠政の娘です(注)。)がありましたが、当時の藩主の結婚は、重要な政事(まつりごと)の一つであったわけです。そして、忠政亡きあとは、嗣子の忠恒が寛永20年(1643)まで山形を治めていましたが、無嗣子で死去したため、領地は一旦公収されました。ただし、鳥居姫の祖父鳥居元忠が徳川家康の側近中の側近で、関ヶ原の戦において功があったところから改めて忠恒の異母弟の忠春に3万石が与えられ、信濃の高遠に転封になったという因縁があります。代わって、山形には徳川家光の異母弟保科正之が20万石で入り7年の在封の後会津へと転封になりました。 これまたほどなくして、青柳さんから庄司英樹さんのメールを読んでの感想と一句が私宛の別用のついでに届きましたので、それを紹介して追記の筆を置きます。
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| 2013年6月9日 | ||
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